それは誰が決めた美しさか|トニ・モリソン『青い眼が欲しい』と現代のルッキズム
美しさの価値観は誰のもの?
「美しさ」についての話題は、私たちの日常に溢れている。スマートフォンを開けば、SNSに溢れる美しくなるための大量の広告が目に入ってくる。
美肌効果のあるスキンケア、トーンを上げるためのメイクアップコスメ、誰もが羨む髪になるためのヘアケア、内側から綺麗にするためのサプリメント、家でもケアを怠らないための美容家電に、美容クリニックからサロンの施術まで。現代人は今以上にもっと美しくなることに余念がないらしい。
美しさの話は、自分一人を美しくするだけに留まらない。このインスタのモデルは綺麗、テレビのアイドルは可愛い、映画の中の俳優は美人だ、と世間話の延長には他人の美しさについてのものがすぐに現れる。その上、他人の美しさについて称賛の言葉を与えるだけでは飽き足らず、あの人は可愛くない、グループの中で顔は普通、この役者の顔は好きじゃない、と美しくないものに酷評も忘れないのが現代人だ。
人は美しさの話が大好きだ。ルッキズムという言葉も蔓延している通り、「見た目で人を判断してはいけない」と道徳的には言いながら、外見や容姿で人に優劣をつけて、いい人に見えると評価を下す日々。
そうして、多くの人が毎秒毎秒美しさについて意見を述べているところだが、一体その美しさの「基準」が誰によって作られた価値観であるのかを考える人はどれほどいるだろうか。自分から湧き出た感情のままにその対象を美しいと思っているのか。それとも他の誰かによって作られた美しさの基準を自分の中で育ったものだと思い込もうとしているのか。
トニ・モリソンの『青い眼が欲しい』は、他人の作った美しさの価値観を自分のものとして内面化してしまうことの悲劇を描いた作品だ。
『青い眼が欲しい』
小説の舞台は1940年代のアメリカ中西部オハイオ。主人公である黒人の少女ピコーラは、機能不全に陥っている貧しい家庭に暮らしている。
彼女の父親は飲んだくれの荒くれ者で犯罪を犯して刑務所にも入れられる手のつけられない男。その妻、ピコーラの母ポーリーンは裕福な白人家庭のハウスキーパーとして働いており、その勤め先の家庭を自分の本当の家だと思い込もうとしている。
夫婦は家では常に喧嘩をしており、その互いの暴力の連鎖にピコーラは「どうかわたしを消してください」と願うほど追い詰められている。そうした家庭で過ごしているうちに、いつしかピコーラは「自分の眼が違っていれば、つまり美しければ自分は違っていた」と思うようになり、「青い眼にしてください」と熱心に祈り続けていった。
ピコーラは自分が醜いと思い込んでいる。そして、自分が綺麗な眼をしていれば父も母も「あんな綺麗な眼の前じゃ悪いことはしてはいけない」と言うだろうと考えていた。ピコーラの願う美しくて綺麗な青い眼は、言わずもがな白人の持つ容姿を指している。
当時、誰もが可愛らしいと思う少女の最も典型的な姿は、白い肌に金髪で青い眼を持った少女。子供たちが食べていたキャンディーの包み紙に印刷されているメアリー・ジェーンと同じ。その白人的な特徴を持っていなければ、可愛いと子供は言われることはない。そういった特徴を何一つ持たない黒人のピコーラは、美しくない、醜い存在だと、自分自身をそう思い込んでしまっていた。
作中では「彼女は決して自分の美しさを知ろうとしなかった」と語られる。つまり、ピコーラにも美しさはあった筈だった。それなのに、ピコーラは自分の中に美しさを見つけることができなかった。
なぜ彼女は「白人の持つ美しさが絶対で、自分は醜い」と思うようになっていったのか。
マイノリティの内面化
社会には多くの偏見と差別が散らばっている。その多くはマジョリティの規範・価値観をもとに生まれたものであり、それをマイノリティ自身が「自分たち自身の価値観」として取り込んでしまう現象、それをマイノリティの内面化という。
ピコーラが自分を醜いと思うようになっていったのも、この内面化が深く関わっていた。そして『青い眼が欲しい』の中では、この内面化によって、ピコーラ以外の登場人物たちの心を蝕んでいく姿が複数の視点で多角的に描かれている。
ピコーラは黒人であることを要因に、社会の中で日常的に差別を受けている。元も印象的に描かれているのが彼女がキャンディを買いに行った売店でのシーン。白人移民の店主は、ピコーラが店に入ってきても、彼女を見ようとしない。ピコーラは店主は、彼女を人間として認めようとする意識が欠けていることに気がつく。それが小さい女の子だからだろうかと考えたが、同じような嫌悪を他の白人から向けられたことを思い出し、自分が黒人であるから向けられたのだと理解する。その不条理に彼女は怒りをを覚えるが、それが続くことはなく羞恥心へと変わってしまう。相手の不当な差別を、まるで自分の落ち度であるかのように恥じてしまう内面化の始まり。ピコーラは自分の感情さえも信じられなくなり、白人の持つ美しさという外部の価値観に依存していく。
だが、内面化はピコーラだけに起こったものではない。彼女の両親にも同じように呪いのように刻まれている。
ピコーラの母ポーリーンは、裕福な白人家庭のハウスキーパーとして働いている。ブリードラブ家のポーリーンでは差別を受けるだけの存在だが、白人家庭のフレッチャー家では家事や育児全権を任され、時には白人家族の代理として振る舞うことも許されている。ポーリーンが自身の家庭を蔑ろにし、白人家族こそが自分の本当の家族だという姿を見せるのは、白人の生活規範を内面化して擬似的にその生活に身を置いていることでしか彼女の自尊心を維持できないからだ。
父、チョリーもまた過去に白人から受けた精神的なトラウマを抱えていた。若い頃に、野外でガールフレンドとセックスをしていた際、白人二人に見つけられ、見せ物のようにされた経験がある。チョリーは自分を揶揄った白人に怒りを向けることはなく、自分とセックスをしていた黒人の娘を憎んだ。白人への抵抗を諦め、自分の受けた不当を同じマイノリティである内側に反転させてしまう。
マジョリティの価値観がマイノリティの中で内面化されることで、マイノリティのコミュニティ内部でも階級が産まれていく。
白人というマジョリティが階級のトップに君臨しているが、その下に存在する黒人たちは全て同じ階級という訳ではない。白人の規範を取り込んだ黒人たちは、白人に近づいた自分たちの自尊心を守るために、黒人の中にさらに下の階級を作り出していく。容姿や振る舞いをマジョリティ側へ適応させたカラード層は、自らの優位性を証明するために、その基準から最も遠く、貧しく汚いとみなされる同胞ニガーを排除し、差別する側に回る。
白人だけでなく同じ黒人からも否定されること、この二重の階級化に晒されることで、ピコーラのような存在は「自分は醜い」という自己否定と劣等感をさらに強めていってしまう。
それは誰が決めた美しさか
『青い眼が欲しい』はアメリカの黒人差別を描いた作品だが、同じ現象は現代の日本でも起きていると言える。
私たちが日常的に消費している「美しさ」の基準は誰が作ったのか。ファッション業界の広告に並ぶモデルたち、SNSで正解の美しさとされる容姿、それらは多くの場合、白い肌、小顔、長い脚といった、欧米中心の美意識を原点としたルッキズムではないか。人々はそのマジョリティの基準を、あまりにも無意識のうちに自分自身の理想として内面化してしまってはいないだろうか。
かつてピコーラは「青い眼」に奇跡を願ったが、現代の私たちは祈る必要もなくスマートフォンの画像加工アプリで、画面の中の自分の容姿を簡単に変形させられる。本来の自分から目を背け、幻想のなかの加工された姿をSNSで世界中に向けて発信すること。自分の中の本来の美しさから眼を逸らして、作られた美しさだけを信じるのなら、それはピコーラと同じ道を歩んでいると言わざるを得ない。
さらに、その価値観の内面化が、私たちの間でも残酷な階級化を生み出している。ネット上で誰かの容姿を、垢抜けていない、意識が低いと酷評し品評し合う文化は、作中でマジョリティの規範を身にまとった者がそうでない同胞を底辺として排除するカラードとニガーの分断の構図と似ている。本来なら、人々を縛り付ける過酷な美の規範に対して怒りを向けるべきなのに、いつの間にか他者への酷評や鏡の前の自分自身への羞恥心へと反転してしまう。
作中では、全ての登場人物が盲目的に白人の規範に従っていた訳ではなかった。
白人を模した青い眼と金髪を持ったベイビードールを愛せず、バラバラに壊したクローディア。彼女のように、私たちはマジョリティから与えられた価値観に対して批評的であることができるだろうか。
他人の眼ばかりを気にして自分の美しさを見つけることなく眼を逸らしてしまう前に、私たちはもう一度自分自身い問いかける必要がないかと、この作品は問いかけてくる。
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