偽りのマスクと奪われた当事者性|『顔を捨てた男』(2023)
以前『青い眼が欲しい』についての感想をブログに書いたが、その流れで観た『顔を捨てた男』が非常に良い現代のルッキズムへのアンサーを叩きつけてくれた。『青い眼が欲しい』では、当時のアメリカの白人中心の美への価値観を内面化してしまった黒人少女のピコーラに起きる悲劇が描かれたが、『顔を捨てた男』では、コンプレックスであった自分の顔を変えて順風満帆の生活を送り始めたのも束の間、かつての自分そっくりの容姿をした男が現れたことで、自分が背負っていたはずの人生を他人に奪われていく恐怖とそれによって狂い始める人生を描いている。
物語の主人公は、病気によって変形している顔を持つ役者志望の男、エドワード。役者志望といっても特定の仕事がある訳ではなく、唯一射止めた役は「特異な容姿を持つ社員との接し方ビデオ」のみ。地下鉄に乗っていても道で歩いていてもバーに行っても、その普通とはかけ離れた容姿から常に奇異の視線と心ない言葉に晒される日々を送っている。そんな折、エドワードは、隣に引っ越してきた劇作家のイングリッド出会い、心を寄せていく。しかし、彼女にボーイフレンドの影が見えたことや、元来の消極的な性格もあり、彼女に想いを告げることはできない。そんな中、エドワードは医者から画期的な治療法を勧められ、言われるがままに治療を受けることになる。すると、腫瘍に包まれていた古い顔は剥がれ落ち、その下から新たな美しい顔を手に入れることになる。彼は顔だけでなくエドワードという名前を捨て、新たにガイと名乗って新たな人生のスタートを切る。新しく手に入れた容姿を存分に活用するために、不動産のセールスマンとなり、あっという間にナンバーワンの成績を上げる成功者となる。一方、エドワードは自殺したと聞いたイングリッドは、彼の名前を冠し彼を題材にした『エドワード』という戯曲を制作する。それを知ったガイは、以前の自分に似たフェイスマスクを被ってオーディションに参加し、かつての自分自身を演じる主役に選ばれる。仕事も順調、舞台の主役、イングリッドとの恋愛関係と、何一つ文句のない生活を送っていたある日、かつてのエドワードと似た変形した顔を持つ男、オズワルドが現れる——。
オズワルドが劇のリハーサルに入ってきた時、映画の中では突然入り込んできた異質な存在に対する警戒と同じように、また観客の中にも緊張が走る。オズワルドの容姿は細部は異なるものの、観客がそれまで作中で観てきたエドワードの変形した顔と非常に似ているからだ。顔を変える前のエドワードの容姿が、観客の脳裏にはにはこびりついている。そして、少なからず観客はエドワードの容姿に、嫌悪とまでいかないかもしれないがある種の居心地の悪さを感じていただろう。自信がなさげに俯きながら、時に顔を隠すように身を縮めて足早に自分のアパートに帰っていく。せっかく仲良くなったイングリッドとも仲のいい隣人以上の関係にはなれずに、口下手でディナーでも楽しい話題を提供する立場ではない。現代の日本風に言えば、紛れもない陰キャなエドワード。だが、観客は語られずとも理解している。エドワードは暗い性格になりたくてなった訳ではない。彼は自分の特異な容姿が原因で自信を失っている。エドワードは、見た目でその人の人格、能力、価値までもを勝手に推測される現代社会に蔓延するルッキズムの被害者なのだと。
しかし、原題の『A Diferent Man』が指す通り、オズワルドは驚くほどエドワードと異なる人間だった。オズワルドは資産家で自由な人生を送っており、友人も多くいる。彼が一度口を開くと、知的で、教養があり、ジョークを飛ばして、人を惹きつける魅力を持っていることが分かる。陰キャのエドワードに対して、陽キャのオズワルド。劇団の人間も会社の同僚も、初対面ではオズワルドのその容姿に一瞬の驚きは見せるが、彼が話し始めるとすぐにその警戒を解いて、彼と同じように彼自身に心を開いていく。例えその容姿が、人とは異なるものだったとしても。
オズワルドの登場で観客は一瞬混乱する。エドワードを見てきた観客はある思い込みをしている。醜い容姿を持った人間は、他人から向けられる容姿へのネガティブな感情を受けて心を暗くさせ、その顔を捨て去ってしまいたくなる気持ちも分かる、という同情と納得をルッキズム的偏見のうちに抱いているのだ。エドワードが顔を捨てるまで見せてきた彼の内面から滲み出る重苦しさは、まさにその考えを支持している。しかし、オズワルドは違う。元の姿のまま、自分の人生を心から楽しそうに生きているようにエドワードに見せつける。社交的に人々に振る舞い、ユーモアで笑いを誘い、極め付けに『I Wanna Get Next to You』をステージで歌うシーンは強力だ。エドワードでは、こんなことはできなかっただろう。自ら進んでステージに立って、多くの観客から視線を集めながら歌ってみせるなんてことは。なんだ、容姿が醜くともみんながみんな心が暗くなるわけではないのか、と観客は気がつく。エドワードが人を真に遠ざけていたのは、自分を否定する他者を恐れていた彼自身の内面であったと、オズワルドの存在で証明してしまう。
オズワルドとの出会いが、新たな顔と名前を手に入れたガイの完璧な人生を歪ませていったのは確かだが、彼自身も捨てたと思った自分の顔に執着している。新たな人生を歩むなら、過去の自分など綺麗さっぱり忘れ去ってしまえばいい筈だ。だが、わざわざ『エドワード』という自分の名前をつけられた舞台のオーディションに向かう。当然、この舞台では新たに手に入れたイケメンの顔は不要だ。彼は、かつての醜い顔を模したマスクを被って役を演じる。見た目はイケメンでも、その中身は舞台のモデルとなった、ついこの前まで自分の顔にコンプレックスを抱えていた傷つきやすい屈折したエドワードだ。初めはマスクを被るなんて馬鹿馬鹿しいと言ったイングリッドも、ガイの演技を見てその切実さを感じとり、彼を主演に抜擢する。わざわざ顔に疾患を持つ男を中心に据えた物語を書きながら、役の当事者性を排除して、マスクという偽りを被ったまま稽古を始める。ガイにとっては、舞台を通してイングリッドと関係を深めていくプロセスは、哀れな過去の自分自身の救済の儀式でもあったのかもしれない。
自ら顔を捨て去ってしまった今、舞台の中にしかエドワードは存在しない。しかしそこに、魅力的な当事者であるオズワルドが現れ、物語はブラックコメディへ変貌していく。イングリッドはあっさりと主演をガイからオズワルドに変え、舞台の結末も目まぐるしく書き換えられていく。初めはガイが吹聴したままの「エドワードの自殺」の悲劇を描いていたが、オズワルドの参加により「最後に美女と野獣のように醜い容姿が美しいものへと変容する」結末に変わり、最後には「そのままの容姿でガールフレンドと結ばれるハッピーエンド」へ変化を遂げる。
ガイの役割は徐々にオズワルドに奪われていき、最終的には舞台の上に居場所は無くなってしまう。彼の内面は当事者であるのに、美しい外見となったせいで彼は当事者から弾き出されていく。ガイは自分で捨てたはずの苦しみと劣等感をオズワルドという他人に奪われてなるまいと躍起になっていく。しかしそんなガイを嘲笑うかのように、稽古中に特殊メイクのマスクが顔に付かなくなり、剥がれ落ちていってしまう。映画の前半で治療によって彼の顔から腫瘍が剥がれ落ちていくシーンには、血が滲み実際の肉片が剥がれる際の生々しさがあった。しかしメイクの顔は作り物であることを隠さず、ペラペラと剥がれてしまう。しかし、そのマスクさえもガイにとっては自分がエドワードであった実在の証明だ。あれだけ嫌ったはずの顔が剥がれていくのをを止めようと必死に手で押さえるガイの姿は、滑稽でさえあった。
ガイ(エドワード)の人生はどうしてこうも狂ってしまったのか。最終的に彼は殺人まで犯して刑務所に入れられて、顔が変わったことでむしろ不幸になってしまった。彼に対して最も無自覚で罪深い加害を行なっていたのは、彼が惹かれたイングリッドのように見える。
彼女は初対面の時からエドワードの容姿に臆することなく接し、一見、偏見を持たないリベラルな理解者のように振る舞うが、その実、エドワードという一人の人間を「自分の創作を彩る都合のいい糧」としか扱っていない。彼女の優しさは、当事者の生々しい苦しみを安全な場所から消費するためのポーズに過ぎない。その無神経でグロテスクな本性は、ふとした瞬間にボロを出して顔を覗かせる。以前のエドワードが想いを込めて贈り彼女の中では遺品となったタイプライターを、彼女は新しく現れたガイにあっさりと譲ろうとする。また、ガイとのベッドシーンで「あのマスクを着けて」とねだり、実際に着けさせた途端に「やっぱり無理」と笑い出す。彼女にとってエドワードの顔や苦悩は、自分が刺激や感動を得るためのフェティシズムの対象であり、作品を成功させるための使い捨てのパーツでしかなかったのだ。
しかし、私たちはイングリッドのこの無意識の搾取を、劇中の悪役として冷笑できるだろうか。この映画を観ている観客である私たち自身こそが、最もイングリッドに近い存在と言える。特異な容姿を持つ人間の悲劇に勝手に同情し、それを感動的な物語や考えさせられるアートとして消費し、より魅力的な当事者が現れれば安易にそちらへと飛びつく。イングリッドの持つ無自覚なグロテスクさは、スクリーンのこちら側で当事者の物語を安全な場所から消費している私たち観客の姿そのものを、容赦なく映し出す鏡となっている。
どれほど外見を美しく変えようと、それが他人の外見の基準や他者の視線に自分を合わせるのなら、それは自分の人生を生きているとはいえなくなる。『青い眼が欲しい』でピコーラが自分が持ち得ない青い眼を願い自らの美しさから眼を逸らしたことと同様に、自分ではない何者かになろうとすることで人は顔だけでなく、自分自身の人生そのものを誰かに明け渡してしまうことになる。
特殊メイクの仮面を被って自分自身を演じようとしたエドワードの惨劇は、ルッキズムや消費社会の中で自分らしさを見失いかける私たちに、どこまでも冷ややかにグロテスクな教訓を突きつけている。
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